ひとつだけ

あんたにはわからないよ一生な

ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。

 

深夜の住宅地には低い音がひびく。人がたくさんいる駅中などは気にならないが、このように静かな場所を歩いているときは誰かに叱られるんじゃないかと不安になるほどの轟音をたてているような気になるわ。

ながい把手とタイヤがついているだけの大きな箱なのに、それらがつくだけでこんなに便利よね。ふしぎなものだけど、ただの箱とはその点が大きく違うのだわ。ながい把手があって、タイヤがついている。それだけのことで両手がふさがることもないし、長時間はこぶのにも苦労がないのだから。

この道具を発明したのはだれなのか、なんという会社でつくられているのか、なにも知らないけどわたしは使っている。便利な時代だけどすこしさみしいわね。

この緑色したトランクをプレゼントしてくれたのは今年22歳になるわたしの孫なの。とても素直な子でね。小さい頃からよく遊びに来てくれて、おじいちゃんの仏壇に供えてある桃を見ては食べたがっていた。おじいちゃんが桃のことを「すいみつ」と呼ぶのが好きだったわね。気がつくと真似してそう呼んでいたわ。

孫は今広告の会社に務めているわ。仕事が大変なんだそうで、ここのところ少し痩せたみたい。もともと食の細い子だからわたしは心配で、咲子にーー咲子はわたしの長女なんですけれど、その咲子につい電話をかけては、孫にきちんとご飯を食べさせているか聞いてしまうのだけど、ここのところは「もうあの子も大人なんだから、自分でやってるんだから」と言われてしまうのよね。咲子はすこし冷たいわ。母というのは子が幾つになろうが心配して世話を焼くものなのに、それはいつの時代だろうと変わらないことであるべきなのに。

咲子が冷たいから、代わりにわたしがあの子に世話を焼くことにしたの。あの子はとても優しいから、わたしの家に遊びに来たときに携帯電話の番号を教えてくれていたのだわ。仕事が休みだと聞いていた月曜日に電話をかけて、足りないものはないか、お金が無くてひもじい思いをしていないか、そして、ごはんはきちんと食べているのかしら、ということを聞いたら、あの子は笑って、大丈夫だよおばあちゃん、ちゃんとやってるから安心して、と答えたの。

ああ、あの小さかったこどもは、今では祖母に気を遣わせないようにと電話口でこんなふうに明るい声を聞かせてくれるようになったのか、時間の流れを感じてくらくらとしたわ。おじいちゃんが生きてたらきっと過保護なほど褒めるに違いない。素晴らしい子だわ、あの子は。

わたしにできることがないか、いつも考えていたわ。あの子の家に行ってみようかとも思ったけれど、さすがに迷惑よね。もしかしたら好い人がいるかもしれないし、そんなところにこんなおばあちゃんが現れたら興ざめさせてしまうかもしれない。

荷物を送ろうか考えたけれど、わたしが買えるものはあの子にも買えるのだわ。あの子は遠慮して食べたいものやほしいものなど言わないし、しばらく考えていたけれどやっぱりわたしにはあの子の役に立つようなものが思いつかなかった。

だからあの子の口座に少しばかりのお金を振り込むことにしたわ。毎月の年金からだから、ほんの少しだけしかあげられないけれど、それで少しでもおいしいものを食べてほしい。あの子はすぐに電話を寄越したわ。おばあちゃんありがとう、いいのに、と言って。わたしは孫の声をふたたび聞けたことが心の底から嬉しかった。

孫は、わたしを気にして電話をよくくれるようになったわ。仕事が終わってからだから、遅い時間になるのだけど、週に一度は電話をくれたわ。わたしはほんとうに嬉しくて。デイサービスの細本さんにもつい自慢してしまった。細本さんはいつものように、名前と同じに細い目をさらに細めて、「それは本当によかったですねえ、兎山さん」と言った。

孫は電話でいろいろな話をしてくれた。仕事のことが多かったけれど、会議で発言したら上司に褒められたこと、自分の企画したものが通るかもしれないこと、またある日は、上司に叱られたこと。仕事をしていれば、大変なこともあるわよね。わたしがあの子と同じ年のころには、仕事をやめてもう咲子を産んでいたけれど。

 

 

あの子から最後に電話が来たのは、先週の火曜のことかしら。いつもならあの子がまだ仕事をしている時間にかかってきたから、最初はあの子だと思わなかったのよ。お風呂に入ろうとしていたものだから、あわててバスローブを羽織ってピアノの上に置いてある電話の子機をとった。

あの子の声はどこか震えていたわ。もしかして泣いてるのかしら、仕事で辛いことがあったのかもしれない、と思って、わざといつものように話しかけた。ヒナちゃん、大丈夫かい?もうご飯は食べたの?

あの子は、すこし黙ったままでいたけど、やがていつもと同じように話しはじめた。今日は上司にすごく嫌なことを言われてね、みんなも迷惑してるみたいだった、けどさ、新興宗教みたいなもので、誰も上司にオカシイとは言えないんだよ、でも我慢するしかないよね、仕事は大変だけど楽しいし……。わたしは、少し心配になって、もしどうしても辛いことがあるのなら仕事を辞めたっていいよ。また新しい仕事を探せばいいじゃない。と言ってみた。あの子はまた黙って、ありがとうとだけ小さく言った。

 

 

ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ。

わたしはまだ夜の住宅街を抜けていない。ここからは緩やかな坂になっており、このまま進むと山に向かう道につながっている。だんだんトランクの重みが増してきたように感じて、すこし疲れてきたわ。でも、あと少しであの子が待ってるから、もう少しの辛抱よ。

このトランクはね、孫がくれたの。いまこの中には、孫の上司だった人が入ってるわ。刈田さんと言ったかしら。左手に指輪をしてたからきっと奥さんがいるんだろうけど、あまりいい顔ではなかったわね。

 

あの子はとても優しい子なのよ。この坂を上ると、あの子に会えるの。